2016年9月30日金曜日

「神の思いに満たされて」使徒言行録2章1~13節 

10月より午後3時〜の礼拝になります。

- 礼拝メッセージ

今日の聖書の箇所は教会の礼拝に長く出席されている方なら皆さんよくご存知のペンテコステ、聖霊降臨の出来事の記事です。


今日はこの箇所の中で、キーワードと言ってもいいような一つの言葉に注目したいと思います。それは4節の「満たされ」という言葉です。この言葉は、4節にしかないように私たちの聖書では見えますが、もともとの言葉で書かれた聖書には、同じ語源を持つ言葉がこの4節も含めて3回出てきます。


まず初めに、1節に「五旬祭の日が来て」と書かれていますが、この言葉を直訳すると、「五旬祭の日が満ちて」となります。つまり、「来る」と訳されている言葉の本来の形は「満ちる」という言葉だということです。「時が満ちる」などという時に使われる言葉です。

 次に2節後半には「彼らが座っていた家中に響いた」と書かれていますが、これも直訳すると「彼らが座っていた家中に満ちた」となります。


 このように、1節、2節、4節と立て続けに出てくる「満ちる」という言葉ですが、この「満ちる」にはさまざまな意味があります。例を挙げると「成就する」「全うする」「完全にする」「実現する」等です。


 そうすると、このように言うことも許されるのではないでしょうか。つまり、神の思いを明らかにする霊、神の思いそのものと言ってもいい聖霊に私たちが満たされる時、神の思いは実現し、成就し、全うされる、ということです。

 1節の「時において」も、また2節の「空間・場所において」も神の思いが満たされることにより、神の思いが実現していく過程が示されています。しかし、一番神の思いが大きく強く現されるのは、「人において」神の思いが満たされる時だと思います。

 ただ人間は、神の思いに身を委ねるどころか、自分の思いに自分自身を委ねてしまうことをどうしてもやめられない現実もあります。それが私たちにとっては楽だからです。

 また、そのことを象徴するような言葉が13節に出てきます。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ。」とあざける者の言葉ですが、実は、この「酔っている」という言葉もまた「満たされる」という言葉です。ただし、先に出て来た1節、2節、4節とは異なる語源を持つ別の言葉です。


 このことからも私たちは示唆を与えられます。それは、人間は神の思いで自分を満たすことを求めるのではなく、それ以外のもので自分を満たそうとするということです。特に捉えにくく目に見えにくい神の思い、神の愛で自分を満たすのでは無く、すぐに自分を良い気分にさせるもの、目に見える人からの賞賛であったり、お金であったり、名誉であったり、権力であったり、形はさまざまですが、手取り早く自分の思いを満たしてくれそうなものを求めてしまう。


そして、本当に自分を喜びで満たし、神との関係を築きあげるものからは遠ざかるのです。今日のところでは、あざける者からの声としてそれは語られていますが、この声は時には、自分の内から聞こえてくる言葉になるかもしれません。


 このような神の思いと、人の思い(自分の思い)との狭間を行ったり来たりするのが私たち人間の歩みではないでしょうか。そして、このような歩みは非常に心もとない、危うい歩みでもあります。だからこそ、私たちには神さまの愛、イエスさまの助け、聖霊の導きが必要なのです。


また私たちを、この神さまから遠ざけようとする悪魔の働きもあります。そのような悪魔の誘いと、神の導きとの関係を絶妙に表現している、次のような言葉を聞いたことがあります。それは、「悪魔は神の試練に乗じて人を誘惑し、神は悪魔の誘惑を機会と捉え、人を訓練する。」つまり、悪魔は神が人に与えられる試練に乗っかって人を神から引き離そうとしますけれども、同時に神はそのような悪魔の誘惑さえも用いて人の信仰を強め、神の思いを受け入れることができるように導かれるということです。

そのような神の「愛」と「助け」と「導き」を受ける中で、私たちは徐々に、しかし確実に自分の思いに従って生きる者から、神の思いに従って生きる者へと変えられていくのです。


全く神から離れ、自分の思いにのみ従って歩んでいた者を神のもとに立ち帰らせ、神と和解させるためにイエスさまは十字架に架かってくださいました。また、天の父かる神さまは御子イエスさまにそのような道を通らせてまで、私たち人間との関係を回復しようとされました。なぜ神さまがそれ程までに私たちを愛しておられるのか、それは分かりません。しかし、その神の愛が私たちに生きる意味と力を与えてくださるのです。


そういう神さまと私たちの関係はまた、このように言い表わすことができると思います。人間はさまざまな物を作り出します。鉛筆、机、車、家。それらは全て人間のためのものです。人間がそれらを用いて、使ってはじめて意味を持ちます。
同じように、私たち人間は神に創られたものです。そうであるならば、私たちは神のためのものです。但し、神は私たちをモノとして扱われるのではなく、関係を求められるのです。神との愛の関係のうちに生きることを求めておられます。


この神の思いに満たされて生きる道をイエスさまは与えてくださいました。そして、神とイエスさまの思いを聖霊が私たちの心に示し、満たしてくださるのです。


神の思いに満たされた者は、神の思いと一つとなってこの福音を伝えるために遣わされます。聖霊を注がれている私たちを通して神の言葉が語られる時、私たちの思いではなく、神の思いが実現していきます。一人一人が与えられた場所で、聖霊に満たされて神の思いに満たされる時、そこで神の思いが実現していくのです。


「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と語られたイエスさまのお言葉は、初代教会の聖霊降臨日の時にだけ実現した言葉ではありません。それから、二千年以上経ったこの時代においても、世界中の教会で、世界中のキリスト者を通して、あなたを通して、わたしを用いて実現し続ける神の思い、神の言葉なのです。


主よ、どうかこの神の思い、あなたの思いで、この私を満たし続けてください。


  川上 寧