2016年10月16日日曜日

「すべての人の救い主」マタイによる福音書1章1~17節  

10月より午後3時〜の礼拝になっています。 

マタイによる福音書1章からの名前の羅列は初めて聖書を開く方にはもちろん、何度も読んでいる方々にとっても、少々うんざりする文章と言ってもよいかと思います。作家の三浦綾子さんは初めてここを読んだ時、何とか読みこなすために、自分が結婚する相手にはどの名前の人がいいだろうか、などと思いながら読んだ、と何かの文章に書いていらっしゃいます。私自身も正直申し上げて、いわゆる「ななめ読み」をしたくなる箇所です。


昔のユダヤの人々にとって、その人物がどのような出自であったかということは非常に大切でした。ですから旧約聖書にも数多くの系図が記されています。その当時の慣習を思えばこのように丁寧な系図が書かれていることは納得できます。しかし、この系図は単に伝統に従っただけではない、もっと大切な意味を織り込んだ内容になっております。


「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉でこの系図は始まっています。「イエス・キリスト」という表現は、たくさんあるかと思いきや、実はマタイによる福音書ではここと1章18節の2か所しかありません。他のところには「キリスト」抜きで「イエス」とのみ書かれています。あえて数少なく、大切なところでのみ「イエス・キリスト」つまりイエスさまは救い主である、ということを強調しているのです。


救い主はアブラハムの子孫である、とまず語られています。当時は救い主はアブラハムの子孫から出ると信じられていました。イエスさまはれっきとしたアブラハムの子孫であり、イスラエルの民(ユダヤ人)の祝福の基の血統を受けついでいるということがまず明記されました。しかし、実はアブラハムの血統であるということの意味はそれだけではありません。アブラハムは神さまから「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」という約束をいただいているのです。(創世記12:3)イエスさまはユダヤ人という特定の民だけでなく、すべての民を神さまのもとに導く救い主であるのだ、ということでもあるのです。


系図には4人の女性の名が出てきます。ここで重要なのは、この4人はおそらく全て外国人だということです。救い主イエスさまは外国人の血を引いているのだ、ということもここで「あえて」記されているのです。救いはユダヤ人だけのものではない、全ての民に与えられるものなのだと、いうことを系図を通して聖書は私たちに語っているのです。


さらには救い主はダビデの子孫である、と続きます。神さまがダビデに預言者ナタンを通して語られた約束があります。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。(サムエル記下7:12)」この約束をもとに救い主はダビデの血統から出ると信じられてきました。ダビデ王の姿はユダヤの人々にとって、理想の王であり、救い主はまた、このような王の血筋から生まれてくるものであるという大きな期待がありました。


ところで、ダビデ以降の系図には、歴代の王の名前が出てくるのですが、必ずしも旧約聖書に書かれている歴史の内容とぴったり一致しているわけではありません。省略されている名前があります。おそらく意図的に省いたものと思われますが、なぜそのようなことになっているのでしょうか。

本来、系図の目的はその人の出自がどのようなものであるかということだと始めに申しました。その点では、王家の人名が省かれているという時点で、この系図はすでに正しいものではないと言えます。この系図には「もっと大切な意味」が織り込まれているとも申しましたが、それは何でしょうか。


17節を見ますと「十四代」という言葉があります。「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」この十四、という言葉を使うために、わざわざ歴史的には間違っていても名前を省いているのではないかと思われます。


14とは7の倍数です。7は完全な数と言われ、神さまが完全な方であることを示す数です。この系図には神さまの完全な御業があらわされているのだ、ということをいうために、十四代にこだわった系図が書かれたのです。(ちなみに実はきちんと数えると十三代しかない部分もあるのですが、神学者の研究では単なるミスか、歴史の中で抜け落ちてしまったか、明確には分かっていません。)救い主がお生まれになるのはただただ、神さまの御心であり、神さまの御業であるのだ、ということなのです。


旧約聖書を読むと、この系図に出てくる人々が救い主の誕生を妨害するような記事が次々と出てきます。そもそも筆頭のアブラハムがそうです。彼は約束の子、イサクの誕生を待てずに妻サラの侍女、ハガルに子どもを産ませます。最初から神さまのなさることの邪魔をしているのです。

ダビデもまた然り。ウリヤの妻、バト・シェバとの不倫事件は、この聖書箇所においてはバト・シェバにのみ悪女のレッテルが貼られがちですが、実際にはダビデがその罪を神さまから追求されているのです。危うく「ダビデの子」は不倫によって生まれた存在となるところでしたが、神さまによってこの時の子の命は取り去られ、正式に妻となってから生まれたソロモンが系図に加わっています。

そして「バビロンへ移住」と書かれていますが、これはユダヤの民が偶像礼拝に陥ったことで他国に攻め込まれ、バビロンに連れ去れられた「バビロン捕囚」のことです。この時ダビデの建てた王国は滅びてしまいました。ダビデの子孫に救い主が生まれる希望は一度絶たれているのです。


しかし救い主は誕生しました。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として、救い主イエス・キリストが生まれたのは、神さまに背く罪人たちの愚かしい業を超えた神さまだけの御業なのです。


先週、寧牧師の説教の中でマタイによる福音書が目指しているところ、目的としていることとして28章19~20節の御言葉を示しました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」始めにイエスさまはすべての民を神さまのもとに導く救い主であると申し上げましたが、このことが最後の締めくくりでまた取り上げられているのです。同様に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」神さまがいつも人と共にいて、人の救いのために働いてくださっているのだということもまた、最後にもう一度しっかりと語られています。




神さまは、私たち人間をこよなく愛し、どんなに愚かな罪人であっても、神さまを悲しませる行いをなしてしまう存在であっても、ご自分のもとに引き寄せたいと願っておられる方です。そのために御自身のひとり子イエスさまを私たちのもとに送ってくださいました。すべての人がこの福音を知り、受け取り、救われることが神さまの切なる願いです。それほどまでに、人は神に愛されているのです。

    川上 真咲