2016年10月23日日曜日

「救い主のお名前」マタイによる福音書1章18~25節 

 10月より午後3時〜の礼拝になっています。          
 

先週はマタイによる福音書の最初、アブラハムからイエス・キリストに至るまでの系図についての説教を真咲牧師が担当されました。その説教の中で、この福音書では「イエス・キリスト」という表現でイエスさまが語られているのは二箇所しかないことを知らされました。一箇所は冒頭の1章1節、もう一箇所が今日の18節の御言葉です。



「キリスト」という言葉はギリシャ語で「救い主」という意味で、ヘブライ語のメシヤと同じ意味です。つまり、この「イエス・キリスト」という呼び方だけで「イエスは救い主」という意味になります。それ故にこの呼び方は最も短い信仰告白の一つと呼ばれることもあります。



マタイによる福音書は救い主であるイエスさまがどのようなお方であるのかを、まず読み手に十分に紹介するところから語り始められています。最初にイエスさまがどのような救い主でいらっしゃるのかを系図によって示し、今度は「イエス」というそのお名前そのものによって、このお方がどのような救い主であるのかを私たちに伝えようとしているのです。


 

そもそも神の御子であるイエスさまが、どのようにしてそのお名前が付けられたのかが、その誕生を予告する出来事を通して語られています。イエスさまの誕生が予告される聖書箇所で最も有名なのはルカによる福音書1章でしょう。イエスさまの母として選ばれたマリアが、そのことを天使ガブリエルから告げられる場面で、「受胎告知」という呼び名で多くの絵画も残されています。




それと同じような出来事がイエスさまの父として選ばれたヨセフにおいても起こりました。残念ながらこちらはあまり多くの絵画に描かれていないようですが、そもそもヨセフはマタイとルカのどちらの福音書においてもすぐに登場しなくなってしまいます。ヨハネによる福音書では名前しか出てきませんし、マルコにいたっては名前すら出てきません。このことから、おそらくヨセフはイエスさまが伝道活動を始められる頃には、既に亡くなっていたのだと考えられています。



そのように聖書の中であまり光を当てられることの少ないヨセフが、今日のところでは大切な役割を果たしています。それは先に記されている系図と無関係ではありません。ヨセフの夢に現れた主の天使がヨセフに向って「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけていますが、この「ダビデの子」という称号が大事なのです。



系図の最初にも「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありますように、イエスさまがアブラハムの子孫であるのと同時にダビデの子孫でもあるということが特に注目されています。福音書の中でもイエスさまは、あらゆる場面において群衆から「ダビデの子」と呼ばれています。それは多くのイスラエルの民が、救い主に対して抱いていた期待の表れでもありました。いずれダビデの子孫から起こされる救世主が現れ、王として自分たちを治め、敵を打ち滅ぼし、イスラエルの国を再興してくださる時が来ると信じていたのです。



 


その希望には全く根拠が無いわけではありませんでした。イスラエルの民は「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ書11:10)」という預言の言葉に望みをかけていたのです。他にも同じような預言はありますがここに出てくる「エッサイ」という人物は系図にもあるように、ダビデ王の父親のことです。つまり、救い主はダビデの子孫から生まれると考えられていたことを示しています。




そして、実際にそのダビデ家の血筋を引くヨセフの妻として、マリアからイエスさまがお生まれになることにより、この預言は成就したのです。ただ、もしかしたらその預言が実現しなかったかもしれないような危機があったことをも聖書は私たちに告げています。



婚約期間中のヨセフとマリアはまだ一緒には暮らしていませんでしたが、マリアの妊娠が明らかになりました。旧約聖書の掟によると、結婚前に性的な関係を持つことは許されていませんでしたし、婚約中であるならば尚更のことでした。この掟を破るというのは本来、石打ちの刑に処せられることを意味していましたが、この当時は申命記24章の掟に従って離婚することの方が多かったようです。



ヨセフも、この掟である律法に従い密かに縁を切ろうと決心したのですが、もしここでヨセフとマリアが別れてしまっていたならば、たとえその後にマリアが一人でイエスさまを産んでいたとしても、イエスさまはダビデの子と呼ばれることは無かったでしょう。そして、旧約の預言は成就されなかったということになるのです。



イエスさまは十字架上の死において、神からも人からも見捨てられるということを味わわれましたが、その誕生においても神と人から一度見放されることを味わわれたのです。そして、その見捨てられ、見放された状態から再び受け入れられることを通して、救われるべき私たち人間に救いを示してくださったのです。



主の天使を通して「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」ことを告げられたヨセフは、マリアを迎え入れるようにと命じられます。そして、それと共にその生まれてくる男の子を名付けることまでも命じられるのです。



名前を付けるというのは、ただ単に記号のようにものを区別するためだけにあるのではありません。聖書において「名付ける」「名を呼ぶ」というのは、その名で呼ばれたものの本質を表わすことであり、その名で呼ばれたものがその名の通りに存在する、実在することを示しています。創世記の天地創造において「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。(創世記1:3)」と語られている通りです。
 


これと同じことが、ここでも起こっています。ヨセフに現れた天使は言いました。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからです。」と。この「イエス」という名は「主は救い」という意味の言葉になります。だから、天使は「この子は自分の民を罪から救うからです。」という説明をつけています。



 

ヨセフがマリアと縁を切ろうと一度は決心したように、私たち人間は繰り返し、神から離れ、神と縁を切り、神と無関係に生きようとしてきました。そのような自己中心の歩みを聖書では「罪」と呼ぶのですけれども、そこから全ての人間を救い出すために来られたお方であるからこそ、そのお名前はイエス(主は救い)であるというのです。


 


そして、もう一つ天使が挙げた名前「インマヌエル」は、イザヤ書7章に出てくる預言の言葉ですが、これは「神は我々と共におられる」という意味であると語られています。ここで語られている「神」はイエスさまのことを指しています。但し、この言葉はイエスさまの時代だけのものではありません。イエスさまの弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生した時から今日に至るまで、神の霊である聖霊を通して神は私たちと共にいてくださるのです。




 やがて、御国において顔と顔を合わすように私たちは神と共にいることができます。しかしその時までは、聖霊が私たちと共にいてくださり、共に歩んでくださるのであります。


 最後に、最も短い信仰告白と呼ばれているもう一つの呼び名をご紹介いたします。それは、「主イエス」です。主は救いというお方が、私たちの主、神でいてくださるのです。



川上 寧