2016年10月30日日曜日

「確かな光」マタイによる福音書2章1~12節

今日与えられた御言葉には、二人の王の存在が記されています。一人はヘロデ王、もう一人は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と記されているイエスさまです。

イエスさまがお生まれになった時、ユダヤを治めていたのはヘロデ王でした。彼は父親の代からの親ローマ派です。それを理由にローマ軍の助けを得、当時のレビ族王朝を倒します。そしてローマからの任命で自分がユダヤの王となりました。また彼はエドム人といって、純粋なユダヤ人ではありません。そのような経緯から、ヘロデはユダヤの王として自分の立場には自信がなかったと言えます。猜疑心が強く、身内でも何でも自分の立場を危うくしそうな存在は片端から殺害するような人物でした。


そのヘロデのところへ、ある日見知らぬ人々が思ってもみなかった問いを持ってやって来ました。東方の占星術の学者と聖書には記されています。彼らがどこから来た、どのような人物であったのか明言は出来ません。当時の占星術は天文学のような、かなり洗練された学問だったと考えられています。彼らはおそらくバビロニアあたりからやって来た、かなり学識も身分も高い人物であっただろうと想像されております。


ただ、彼らが「ユダヤ人の王」とわざわざ言っている点から、この学者たちは外国人であったことは確実です。蛇足ですが、彼らは教会学校のお話などではよく「三人の博士」と言われます。人にそれぞれ名前があったり、老人、壮年、若者の人であったとか、黒人、白人、黄色人種の人であった、等ともいわれていますが、人数も含めて聖書にはそのような記述はありません。しかしイエスさまがユダヤ人だけでなく、全ての人々、民族の救いのために生まれて来られたことをこのような形で表現した、という意味で受け取ることは可能でしょう。その点では確かにイエスさまは外国人である学者たちの来訪と礼拝とをお受けになったのです。


話を戻しますが、ヘロデは学者たちの発言に相当な衝撃を受けたのではないでしょうか。自分でも知らないところで、知らないうちに「ユダヤ人の王がお生まれになった」のです。自分の地位を脅かす存在が現れたというだけではありません。最初に申し上げましたが、ヘロデは自分の立場を守るためには身内さえも平気で殺害するような人物です。今度はその「新しい王」に自分の命が狙われるかもしれない、と恐れたことも想像に難くありません。

ヘロデ王はじめ、エルサレムの人々が皆、不安を抱いた、と聖書には記されています。王が不安になれば民も不安になるのは確かです。しかし聖書がここで述べたいのは、単なる不安だけではないようにも思えます。


後になってイエスさまを十字架に付けよと求めたのはユダヤの人々でした。ずっと待ち続けていたはずの救い主を受け入れることが出来なかった彼らの姿を、ここですでに垣間見ることが出来るのです。旧約聖書に通じ、ユダヤの歴史を知り、救い主の生まれる場所までわかっていながら、いざ生まれたイエスさまを救い主と認めることが出来ませんでした。イエスさまを救い主、王として受け入れられない者が、そのお生まれを知って不安になる。この様子は創世記の、アダムとエバが神さまとの約束を破った時の姿を思い出させます。それまでは神さまと共に過ごすことが喜びであったはずの二人が、食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実を食べた途端に、神さまを恐れるようになってしまったのです。神さまよりも自分を優先し、結果として神さまと自分との間に何らかの隔てを作ってしまう時、人は恐れを感じ、不安になるのではないでしょうか。


占星術の学者たちに目を移します。彼らは旧約聖書やユダヤの歴史等について、学者である以上多少は知っていたかもしれませんが、それほど精通していたとは思えません。自分たちの専門分野である「星」がいつもと違う様子をしている、ということに気付き、調べ、新しい王の誕生のしるしと知り、そして遠路はるばるユダヤの地を目指してやって来たのです。


そして彼らは星がイエスさまのいらっしゃる所で止まったのを見て「喜びにあふれた」のです。イエスさまこそが本当の王である、と信じている者だけが得ることのできる喜びを彼らは得たのです。「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」私たちにとってはクリスマスにお馴染みのシーンですが、よく考えれば現実味のない光景です。立派な身なりの男たちが、決して裕福とは言えなそうな家に入り込んで、高価な宝物を幼い子にうやうやしく献げている…私たちは既にこの幼子が誰だか知っており、それ故にこのような学者たちがこの子を拝していることに驚きません。献げられたものが幼子向けの玩具や食べ物ではなく、王にふさわしいものであるのは当然だと思っています。


しかしこの時、この幼子が本当の王であり、救い主であることを知っていた人がどれだけいたでしょうか。両親となったヨセフとマリアでさえ、天使から告げられていたことではあっても確実に全てを受け止め切れていたのかどうか定かではありません。それなのに、外国から来た学者たちが喜びにあふれてこの幼子を拝み、見事な贈り物を献げているのです。


星が偉大な人物の誕生を知らせるしるしである、ということは昔から言われてきた一つの伝説のようなものです。実際にこの時の星が何であったのかも、神学者によって諸説述べられてはいますが結論は出ていません。ただ何であれ、不思議な星の現れが彼らを救い主のところまで導いたのは神さまの御業なのだ、ということを聖書は伝えたいのではないでしょうか。この占星術の学者たちが理解したことは遠く離れたユダヤの地に偉大な王が生まれるということだけです。

けれども、それを遠い国の他人事とせず、自分たちも拝むべき王なのだと思い、立ち上がった時に全てが進みました。星は最後まで彼らを導き、確実に彼らが捜していた王のもとまで連れて行きました。彼らに大きな喜びを与えたのです。


私たちは誰を王とするべきでしょうか。ヘロデは王位を持つ自分自身に固執し、自分を守るためには周りを排除することを厭わない王でした。すなわち真の王を王とせず、それ故に真に王である方を怖がり、不安に陥り、ついにはイエスさまを殺そうとまでになりました。そこまでいかないとは言え、罪人である私たち人間の中には自らに固執し、自分が王となろうとする思いが創世記の時代からあるのです。



私たちは真の王であるイエスさまを王としなくてはなりません。学者たちを導いた星のように聖霊が私たちをいつもイエスさまのもとに導いてくださっています。そして真の王、救い主であるイエスさまを拝する時、学者たちのように喜びがあふれるのです。