2016年10月9日日曜日

「神に遣わされる私たち」マタイによる福音書28章16~20節    

10月より午後3時〜の礼拝になっています。 


これから暫く、マタイによる福音書の御言葉をご一緒に聞いて参りたいと思います。そうすると本来なら1章1節から始めるところですが、あえて、最終章28章の最後の部分から聞くことにいたします。


それは、この福音書が一体何処を目指して、何を目的として書かれているのかということをまず受けとめて、その思いを味わってからこの福音書の御言葉に触れていくのも意味あることと思ったからです。決して、1章1節以下の部分を説教するのが難しいからだという訳ではありません。いや、本当はそういう面も少しありますが、その難しい部分は来週、真咲牧師にお任せいたします。


聖書には有名な御言葉がたくさんありますが、今日の御言葉もその一つに数えられると思います。よく「大宣教命令」や「大伝道命令」等と呼ばれているところです。聖書に記されているイエスさまが弟子たちに向って語られた最後の言葉の一つです。そして、このイエスさまの語られた命令によって、弟子たちがイエスさまの十字架の死と復活によって神から人間に与えられた救いの約束、つまり「福音」を語り広め始めたのです。


また、弟子たちだけではなく、その後に続く全てのキリストの教会がこの言葉を引き継ぎ、福音を語り続け、洗礼を授けています。教会がこのことを成し続けているからこそ、人々が福音に出会うことができ、イエスさまに出会うことが起こされています。このように全ての人々に福音を証しし、その福音に生きる喜びを示すために招かれ、遣わされているキリスト者の根拠、教会の存在の根拠がこの言葉の内に表わされています。




イエスさまのこの言葉が記されている18~20節をもう一度お読みいたします。




「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」





このイエスさまのお言葉を私たちはどのように受けとめるのでしょうか。また、キリストの教会はこの言葉をどのように受けとめてきたのでしょうか。



ここで語られているのは命令の言葉です。「弟子にしなさい」「守るように教えなさい」と命令口調で語られるだけでなく、「あなたがたに命じておいた」とまで言われています。



私たち人間は本質的に人から命令されることを好みません。それが目上の人からのものであってもそうですし、突き詰めて言えば、たとえそれが神からの命令であったとしても、「命令」であるというだけで私たちは素直に聞けなくなってしまいます。






何故なんでしょうか。それはやはり、自分で物事を判断したいという思いが初めから私たちの内にはあるからではないでしょうか。自分の判断と異なるものを私たちは受け入れることがなかなかできません。何故なら、それは自分の判断が間違いであったと認めることになるからです。

旧約聖書の創世記において、アダムとエバが神の命令に逆らって、食べてはいけないという「善悪の知識の木の実」を取って食べたことにより私たちの内に入り込んで来た「罪」の問題は、このような私たちの心の思いを通して見えてきます。



しかし、そのように命の源であり、救いの源である神さまから進んで離れて行ってしまう私たち、自分で自分を救うことができない私たちを救うためにイエスさまはこの世へ来てくださいました。イエスさまの十字架の死というのはまさしく、罪の状態にある私たちの罪をご自身の血によって清め、赦すためであり、その死からの復活は、神と共に生きる新しい命が私たちに与えられたことを表わす約束のしるしでした。


そのイエスさまの思い、神さまの思いが込められた言葉として、この「大宣教命令」を聞く時に私たちは感謝をもってこの言葉を受けとめ、この主の思いに応える思いが与えられます。それは、いつの時代のキリスト者もキリストの教会も受けとめ続けてきた神の思いです。
イエスさまは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と仰いました。それは、神の権威と権限が全てイエスさまに与えられているということです。


 宣教、伝道というのは神の思いが広められていくことです。ですから、そこにはまず何よりも神ご自身の思いがあり、神ご自身が宣教されます。しかし、その宣教の対象は人間であるからこそ、神は人間を通してご自分の思いを伝えられます。一切の権能を与えられたイエスさまもだからこそ、その権能を独り占めされるのでは無く、先に福音を受け入れ、神と共に歩むことを受け入れた人々を通して働かれるのです。
 


イエスさまによって最初に選ばれた弟子たちが、このイエスさまからの大宣教命令・大伝道命令を聞くためにガリラヤに招かれたことの意味も改めて考えたいと思います。



マタイによる福音書において、ガリラヤはイエスさまが神の国を宣べ伝え始められた場所です。その同じ場所に、イエスさまは弟子たちを再び招かれたということです。
 


最初に弟子として招かれた時の彼らは、自分たちがどのような方に従っているのかということも、また自分たち自身が何者なのかということも本当の意味では分かっていなかったと思います。


そして、再び復活されたイエスさまに弟子たちが出会った時も、正直に言えば弟子たちの状態は決して良くはありませんでした。

17節に「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」と書かれているからです。
 


しかし、この弟子たちも後になって、ここで語られたイエスさまの言葉を思い出す時に、彼らの心は熱く燃え立たせられ、それこそ思いを一つにされ、伝道・宣教の道へと遣わせていったと思うのです。



復活されたイエスに平伏し、拝みながらも、疑ってしまう自分たち。ある意味ではイエスさまが十字架にお架かりになる時に逃げた時以上にイエスさまから離れてしまっている。しかし、そのような自分たちにイエスさまの方から近寄って来てくださり、語りかけてくださった。まるで、迷える子羊を探し求めるようにご自身の方から近づいてきてくださった。


そして、そこで語られた大宣教命令の言葉を後になって、聖霊が弟子たちの上に降され、神の思いに満たされた後に思い起こしたのではないでしょうか。その時に、本当に知ることができるのです。このような自分のためにこのお方は十字架上で死んでくださり、このような自分のために復活して今も生きていてくださるのだと。


 
 弟子たちを励まし、教会を励まし続けている御言葉は、そのままこの私たちにも語られている言葉です。
 


「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエスさまの言葉の通りに、神がなされる宣教に遣わされる歩みの中で、この主と出会い続けることができるのです。