2016年10月4日火曜日

「収穫の主」 マタイによる福音書9章35~38節

礼拝メッセージ 


「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」


聖書には「残らず回って」「ありとあらゆる病気やわずらい」と記されています。すべてのところにイエス様は目を配られ、心を配られた、ご自分で行くところが出来るところへ一つ残らず出向いて行かれたということを聖書は述べたかったのではないでしょうか。

イエス様は誰一人、ご自分の目の範囲からもれ落ちることのないようにと、心を向けてくださいました。それは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」からであります。羊についてはここにいらっしゃる皆様はもう何度も聖書から、また礼拝の説教からお聞きになっていることと思います。


私自身も教会学校の時から先生に教えられてきました。羊というのはとても弱い生き物なのだ。羊は目が悪い。羊は足が遅い。羊は角や牙のような敵と戦うにふさわしいものを持っていない。そして羊はひっくり返ったら、自分で起き上がることもできない。自分で食べるものを見つけることができない。敵がいても気が付かない、気が付いた時にはもう目の前にいる。でも戦うことができない。そしてすぐ迷子になる。

イエス様がしてくださった迷子の羊の例え話は、もうどなたもが空で話せるほどに何度もお聞きになっていることでしょう。羊は迷子になったらまず帰ってくることができない。飢えて死ぬか、野生の獣に襲われて命を落とすか…そのような状態になっている群衆を見て、イエス様は深く憐れまれたのです。



この「憐れむ」という言葉も、ご存知の方も多いかと思いますが、単純に「可哀想にね」というような、いわゆる「上から目線」の言葉ではないのです。元の言葉をたどっていくと「はらわたがちぎれるような思い」というニュアンスを含んでいると言われています。イエス様はそのような思いを弱り果てている群衆を見て抱かれたのではないでしょうか。お腹の底からよじれるような思い、居ても立っても居られないような思いを抱かれ、そのように弱ったものが一人もいなくなるよう、一人も自分のもとから離れてしまうことのないようにと「町や村を残らず回って」「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」のであります。イエス様を突き動かされたこの深い「憐み」という思いは一人も自分の前から失ってはいけない、という思いではなかったでしょうか。


 続けてイエス様はこうおっしゃいました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

この聖書の御言葉によって、牧師になろうと思った人は多いのではないかと私は思っております。私自身もこの聖書の御言葉に背中を押されて、神学校に入ることを決めた一人でもあるからです。収穫のために働き手を送ってくださるように願いなさいという、イエス様からのお勧めの言葉ですが、しかしこれは、誰かを牧師にするためだけに記された聖書の言葉ではないはずです。

この「願いなさい」という言葉の前に、イエス様が宣言された言葉があるのです。「収穫は多い」まずイエス様は収穫は多いのだとおっしゃってくださっているのです。収穫がないから、少なくて足りないから働き手を送ってもらいましょう、とイエス様はおっしゃっているわけではないのです。すでに収穫はたくさんあるのだ、しかしそのための働き手が少ないのだとおっしゃっているのです。イエス様は人々を救うために、飼う者を見失って命を落とさんばかりになっている人々のために、そういう人々が神様のもとに行けるように、天国に行くことができるようにと十字架にかかってくださいました。私たちはすでに、神様のものとしていただいているのです。天国に行くことができるのです。


あらゆるところを回られ、あらゆる病気をいやされたイエス様の宣教の業の本当の意味は、一番初めに語られた「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」という言葉に表されております。自分が何者であるのか、どのような者であるのか、自分がどのように、何をしたらいいのかわからずに立ちすくんでいる人々のために、こちらが天国だよ、こちらが神様のいらっしゃる所だよ、あなたは救われている、神様のもとに行くことができる、収穫はあるのだと言うためにこの世に来てくださり、その収穫のために神の子であるイエス様ご自身が十字架にかかられ、死なれ三日目によみがえられて、人々が神様のもとに行く道備えをしてくださったのであります。


けれども、この事実を知らない人がまだまだたくさんいるのです。知らないからどのように歩んでいったらわからない、迷っている、そればかりか、このままでは確実に滅んでしまう、神様のもとに行くことができないまま終わってしまう。それがどうにも耐えられない、居ても立っても居られない、身もだえする思いでイエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」とすでにそのことを知っている私たちに働き手となるようにとおっしゃっているのではないでしょうか。


実際に教会に遣わされて、このことを宣べ伝えるようにと学ぶ機会を与えられ、牧師となる者、さらには海外へと導かれて宣教師となる者もおります。しかしそれだけではなく、全てのこの収穫を知っている者に宣べ伝えるようにと、この御言葉はあるのです。ある方はご自分の働いている職場でかもしれません。ある方は学校かもしれません。またある方はご家庭で、自分の家族に伝えるのかもしれません。幼い子供に伝えるようにと導かれる方も、お年を召された方に伝えるようにと導かれる方もいらっしゃることでしょう。


すべての場所で、お一人お一人が置かれているところで、私は救われている、私はイエス・キリストが自分の飼い主であることを知っている、私は神様のところへ行く道をすでに教えてもらっている、私は収穫が何であるのかを知っていると伝えることがイエス様から命じられているのではないでしょうか。


あらゆる形でイエス様を伝えることは出来ます。聖書を開いて、こういう言葉があるよと伝えることはもちろん、多くの言葉を重ねなくても、静かに祈っている姿を見せることでもイエス様を証しすることができます。ふとした何気ない言葉かけ、悩んでいる人、あるいは逆にとても喜んでいる人に寄り添う言葉が、人々に飼い主を教える言葉になるかもしれません。自分が神様から何かを与えられている、神様から真の命をいただいている、救われている確かな存在であるのだということを、自分に与えられている場所で、自分に与えられているやり方で表していくとき、収穫の主を示すものとして私たちは用いていただくことができるのです。


 「収穫は多いが、働き手が少ない」というイエス様の呼びかけにお応えして働く者とさせていただきたいと願います。


 川上真咲