2016年11月13日日曜日

「悔い改めにふさわしい実」マタイによる福音書3章1~12節

3章に入り、赤ちゃんだったイエスさまは大人になりました。そして同じころに洗礼者ヨハネという人が現れます。最初はイエスさまよりも知られていた人物であったと言われています。「ユダヤ古代誌」という書物の中にも洗礼者ヨハネに関する記述が残されており、その働きと影響力はかなり大きなものだったと記されています。


「悔い改めよ、天の国は近づいた」と洗礼者ヨハネは言います。天の国とは神の国とも言われます。神さまが王として来られる時が近づいているのだ、ということです。本当の王としてお生まれになったイエスさまが来られる。ヨハネはその先駆けとなって、道を整え、王を迎える準備を人々にさせる役割を担っていたのです。

この「天の国は近づいた」という言葉は、実際にはかなり切羽詰まった状態を表現しています。のんびり構えてはいられない、天の国、つまり神が王としていらっしゃる時はもう目の前に近づきつつあるのだ。「いつやるか、今でしょ!」という言葉が少し前に流行りましたが、まさに悔い改めるのは今なのだ、とヨハネは人々に切り込んでいったのです。


その言葉を聞いて、多くの人々、しかもファリサイ派やサドカイ派の人々までが彼から洗礼を受けに来たと記されています。この時代、洗礼はユダヤ人でない人々がユダヤ教を信じる時に授けられる、清めの儀式でした。ですから、本来清められる必要のないユダヤ人であるファリサイ派やサドカイ派の人々は、別に洗礼を受ける必要もないということになります。なぜ彼らまでが来たのか、本当に洗礼を授けて欲しかったのか、単なる冷やかしなのか、明確な理由は聖書から読み取ることは出来ません。いずれにしても洗礼者ヨハネは彼らを歓迎しませんでした。


ユダヤ人はアブラハムの子孫、すなわち選ばれた神さまの民であるので、すでに救われている、という意識をとても強く持っています。どんな罪を犯しても、アブラハムに免じて赦されると信じているのです。旧約聖書の中にもアブラハムに免じて赦してくださいという祈りが記されています。洗礼者ヨハネは、そのような前提で生きているユダヤ人たちに対して非常に厳しい言葉をぶつけました。「『我々の先祖はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」という言い方にユダヤ人たちが自分の血統ゆえに救われているという高ぶりへの怒りともいえる非難がにじみ出ているのが感じられます。

余談ですが「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」という中の「石」と「子」はヘブライ語では非常に似た発音なのだそうです。きつい皮肉を込めた発言、ということでしょう。


「悔い改めにふさわしい実を結べ」というのですから、洗礼者ヨハネはやってきたユダヤ人たちの悔い改めがなっていない、と主張しているのです。イエスさまも「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と後におっしゃっています。実が結ばれていない以上、悔い改めていないではないか、ということでしょう。


実を結ぶ、という言葉にはどうしても目に見える結果が伴うイメージがあります。悔い改めたので、罪を犯さないように気を付ける、自分のことばかりでなく他人のことをも心にかける、何より神さまのことを第一とする、などといった善い、愛のある業を行うことが悔い改めた実を結んだことになると思ってしまうきらいがあります。

しかし洗礼者ヨハネがユダヤ人たちに求めているのはそういうことではありません。しかもここにやってきたファリサイ派、サドカイ派の人々というのは神さまの律法をしっかりと遵守し、行ってきた人々です。「善い業」に関しては誰よりも優れたことをしてきていることはヨハネでさえも認めるであろうと思われます。ではヨハネが彼らに求めていることは、一体何でしょうか。


国語辞書で「悔い改める」という言葉を引くと「過去のあやまちを反省して,心を入れかえる。」とあります。悪いことをしてしまったと思う時、人は申し訳ないと思います。相手があることならば謝るのは当然です。場合によっては何らかの償いもするでしょう。そして、もう同じ過ちは犯すまいと気を付けるようにします。人が社会の中で生きていく時、これはとても大切なことです。しかし、神さまと向かい合った時には私たちの悔い改めはこれだけでは済まない、ということに気づかされます。


聖書でいう「悔い改め」とは「向きを変える」「立ち返る」という意味になります。人はなぜ罪を犯してしまうのか、悪いことをしてしまうのか。それは私たちが「罪人」だからです。神さまよりも自分を優先してしまう、アダムとエバの時から続く、罪ある人間はどうしても自己中心です。そして人に迷惑をかけ、傷つけてしまうのです。これを「反省して心を入れかえる」悔い改めをしているだけではいつまでたっても同じことの繰り返しです。私たちは自分ではどうにもならない自己中心の罪を持っているのだ、ということをしっかりと自覚しなくてはなりません。


自己中心から神中心に向きを変える。これが聖書の言う悔い改めです。生き方そのものを変えるのです。「悔い改めよ、天の国は近づいた」の言葉は本当の王である、神のひとり子イエスさまがおいでになるということだ、と最初に申し上げました。それは罪人である人間が、救いを受ける時がいよいよ来た、ということです。この聖書では省略されていますが、「天の国は近づいた」の前には「なぜなら」という言葉が本当はあります。つまり悔い改めなさい、なぜならまことの王である救い主イエスさまが来られたからだ、ということです。


悔い改めとは、まず自分自身をしっかりと見つめ直すことです。ユダヤ人ではない私たちですが、教会に行っている、すでに洗礼を受けている、ということがあのファリサイ派やサドカイ派の人々のように私たちを高ぶらせてはいないでしょうか。イエスさまの十字架と復活なしには、私たちはどうすることもできない自己中心的な罪人なのです。そのことを忘れてはなりません。日々、神中心の生き方になろうと立ち返る、私たちのために十字架にかかってくださったイエスさまを思い起こす、そして救われた喜びと感謝を覚えること、これが悔い改めです。




少し早い話ですが、まもなくアドベントに入ります。伝統を重んじる教会ではこの時期、教会のシンボルカラーを紫色にします。講壇に飾る布や牧師のストールが紫色なのをご覧になったことのある方もいらっしゃるでしょう。アドベントクランツのろうそくを紫色にする教会もあります。紫は悔い改めを表す色です。アドベントはクリスマスの到来を楽しみにすると同時に、悔い改める時期でもあるのです。


イエスさまを迎える準備として、私たちは「悔い改めよ、天の国は近づいた。」という聖書の勧めをしっかり心に刻み付け、自分を見つめ直し、神さまに立ち返る思いを新たにしてまいりましょう。