2016年11月20日日曜日

「洗礼を受ける意味」マタイによる福音書3章13~17節  

先週は洗礼者ヨハネが現れて、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言って、悔い改めの洗礼を授け始めたことを聞きました。
 

この「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という言葉は、その後、イエスさまご自身によっても宣べ伝え始められた言葉であると4章17節に記されています。これは、洗礼者ヨハネとイエスさまが語られた福音、そしてこの二人によって授けられた洗礼が同じ神に由来することを示しています。神さまはご自身の思いをヨハネとイエスさまを通して語られ、また神ご自身からの人間に対する招きを洗礼という形で表わされているのです。


 但し、この二人が語る福音の印象は少し違います。分かりやすく言い換えるならば、洗礼者ヨハネはイエスさまを指し示しながら「このお方によって救いが与えられる。だから、悔い改めて神に立ち帰りなさい。」と人々に呼びかけるのに対して、イエスさまはご自身を指しながら「わたしが救いである。だから、このわたしのもとに来なさい。」と語られている点です。


 それ故に、この二人が授ける洗礼にも違いはあります。洗礼者ヨハネが次のように語っていたことも思い出したいと思います。3章11節でヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」


 洗礼者ヨハネ自身がここで語っているように、彼は「悔い改めに導くため」の洗礼を人々に授けていました。それは人々を神に立ち帰らせるためであり、神の方に向きを変えさせるためでした。いくら私たちを救うための「救い」が神から与えられ、備えられていたとしても、それを受け取る用意が私たち人間の側にできていなければ、その「救い」を受け取ることはできない。その「救い」が無駄になってしまう。だからこそ、洗礼者ヨハネは人々が救いを受け入れる準備を整えるようにと、「悔い改め」の洗礼を授けたのです。


 それでは、イエスさまが授けられる洗礼とはどのようなものなのでしょうか。洗礼者ヨハネの洗礼とはどこが違うのでしょうか。ヨハネはこのように語っていました。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と。

 「聖霊と火による洗礼」とは不思議な言葉です。でももっと不思議なのは、「イエスさまが私たちに洗礼をお授けになる」と語られていることです。四福音書のどこを見ても、イエスさまが人々に洗礼を授けられる場面は出てきません。多くの奇跡を行われ、たくさんの人々の病を癒し、悪霊を追い出されたことは何度も出てきます。しかし、イエスさまが「聖霊と火で洗礼を授けられた」ということは一度も出て来ないのです。


 但し、その出来事は使徒言行録2章1~4節にこのように記されています。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っている家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊″が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と。


 これがイエスさまの授けられる洗礼です。神の霊である聖霊を人々に、私たち一人一人に注いでくださるのです。その聖霊の助けによって、私たちはようやくイエスさまの十字架の死と復活の意味を理解し、この救いと赦しの出来事がこの私のためであったということを受け入れることができるようになります。そして、この救いの出来事を私たち自身が宣べ伝える者へと変えられていくのです。


 今日の聖書のところでは、このような洗礼を授けられるお方が、洗礼者ヨハネのところに洗礼を受けるために来られた時のことが語られています。その時の洗礼者ヨハネの慌てふためきぶりが14節に記されています。

 「ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」と。
 イエスさまは救い主である神の御子です。そのお方が神に立ち帰るため、神の方に向きを変えさせるための「悔い改めの洗礼」を受けるというのは、本来あり得ないことですし、全く必要のないことです。だから洗礼者ヨハネの応対はよく分かります。しかし意外にもイエスさまは、洗礼者ヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けるのは正しいことであり、ふさわしいことであると言われました。しかも「我々にふさわしい」とも言われたのです。


 「救い主」と「救い主を指し示す者」として立場は全く異なりますが、同じ神から遣わされた者同士としてイエスさまは洗礼者ヨハネのことを見ておられます。また、イエスさまがここで語られている「すべて行う」の「行う」という言葉は神の思いが実現する時に用いられる「成就する」「成し遂げられる」と同じ言葉が使われています。

 つまり、イエスさまが「悔い改めの洗礼」を洗礼者ヨハネから受けることによって成就する神の御心があるということです。「救い」そのものを与えてくださるのがイエスさまですけれども、その「救い」につながる「悔い改め」の道を備えてくださるのもイエスさまである。それがこの洗礼によって示されているのだと思います。


 そしてこの時、イエスさまは水による洗礼と共にもう一つの洗礼をも受けられました。それが聖霊による洗礼です。16節に「そのとき、天がイエスに向って開いた。イエスは神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。」と書かれているとおりです。この出来事は、水による洗礼を受けられ、水の中から上がられた時に起こりました。つまり、水の洗礼と一つにつながっていることが示されています。


 まず、水による洗礼が意味することは大きく分けると二つあります。一つは「清める」こと。そしてもう一つは「死」です。つまり、洗礼によって罪が清められることと共に、罪ある自分が死ぬことを示しています。「罪ある自分」とは何よりも自分を優先して生きる自己中心な生き方です。そのような生き方に死に、神の思いを中心にして生きる新しい命に生まれることを洗礼は意味しているのです。


 次に、そのような新しい命を人間にもたらすためにイエスさまは地上に来られ、私たちの身代わりとなって十字架に架かられ、そして復活してくださった。それを明らかにしてくださるのが聖霊による洗礼です。


 そして、この二つの洗礼が一つになって授けられているのが、神が教会を通してなされている洗礼です。神と共に新しい命に生きる道をイエスさまが開いてくださった、その神の恵みを悔い改めと感謝の思いをもって受け入れること。また、神の子どもとして神と神の家族である教会と共に生き始めること。それが私たちに与えられている洗礼の意味なのです。



 洗礼を受けられたイエスさまに、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がありました。これはまずイエスさまに語られた言葉です。しかし、このイエスさまを救い主として受け入れる私たち一人一人にも神が語られるのです。